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Tuesday, July 14, 2009

私の尊敬する恩師・星野芳樹氏の社会・政治家の貴重な逆境経験と星野氏の思い出とその活動に係わる人々の人生経験を紹介致します。


ナイロビ便り 星野芳樹著

アフリカ人婦人と談笑する星野芳樹











1909年東京下谷に生まれる。静岡高校在学中に左翼運動に加わり7年間獄中生活を送る。刑期満了後上海に渡り中国人子弟のために容海中学校を創設、終戦まで経営。帰国後、第1期参議院議員に当選。シベリア抑留者帰国促進運動を展開。1954年より静岡新聞論説委員。海外特派員としてアジア、アフリカ各地を取材。1974年、同新聞を定年退職後、妻巴とケニア、ナイロビに日本アフリカ文化交流協会「ケニヤスワヒリ語学院」を設立、1988年病に倒れるまで日本人留学生にスワヒリ語やアフリカ文化を、又現地のケニア人や在留外国人には日本語や英語を教えた。1992年5月群馬県沼田にて死去83才。



ナイロビ便り 星野芳樹著

アフリカ諸国の夜明け前

1974年、ケニアナイロビに居をかまえ「ケニヤスワヒリ語学院」を運営した著者が、真のアフリカを伝えたいと学院留学生の家族や日本の知人に当てて送った通信文「ナイロビ通信」。月刊で約11年119号を発行。

独立気運最盛期のアフリカの政情や動向をリアルタイムに伝えると共にアフリカの自然や風俗、日常などが愛情に満ちた口調で語られている。

当初200部ほどだったものが800部まで至るが原稿作成から印刷、発送のための宛名書きまで全て一人でこなしている。

本書では「ナイロビだより」(全119号)の他に、アフリカ駐在の日本人向けに発行された「アフリカ古人今人」(全87号)、静岡新聞海外特派員時代掲載されたアフリカ関連記事(抜粋)も収録



参考リンク
http://www.suikodo.com/job/book.html 

:現在はリンクできなくなっています。


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社会・政治家の逆境経験と私の尊敬する恩師・星野芳樹氏の思い出とその活動に係わる人々の人生経験を紹介致します。

1.【恩師 星野芳樹氏の忘れがたい思い出】

私が大学生時代の時であった。 

当時、東海大学海洋学部の初代学部長 速水祥一郎氏(速水氏の母校京都大の京都大学防災研究所所長兼務)が、亡くなられて、静岡県清水市の東海大学海洋学部での学園葬の式典において、その式典に参列していて、その式典の進行の最中に、私の隣席に居られた星野芳樹氏が、突然に、私に、涙声で、語りかけてきました。 

星野氏の上海において、共産党員として、宮本書記長と共に潜伏活動をしながら、国家権力機関からの迫害・追放等の亡命生活の中で、当時、速水祥一郎氏が上海で、揚子江の河川の土木工学上の研究をされていた職場において、速水氏の研究の手助けをしていて、その職場で、速水祥一郎氏が、星野氏に優しくして頂いたという思い出と活動を私に語られたのです。私は、突然なことで、まごついてしまいました。

その時において、私が若く、未熟であり、未だ知りえない星野氏の心の奥に、深く刻まれた亡命生活同様のような生活での、想像を越える辛さや社会の不条理を経験したことを理解し得たことは、後生のことであった。

私はその式典の後において、星野氏が第2次世界対戦中に、戦争反対の思想・政治的な活動のために、中国に亡命生活を余儀なくされて暮らしていたことを知ったのは、星野氏の自伝を友人から借りて、読んだ後であったのである。
 
当時において、知り得ないことであるが、星野氏が海洋学部の政治学の講師と招かれた理由には、たぶん、海洋学部長の速水氏の推挙・推薦があったからであろう。

その両者ともに、既に、この世から、生命を絶たれて、失なわれてしまっておりますが、私の心の奥底に、両者の生きてきた時代の人生観が強く刻みこまれているのです。 

若者に対して、優しくふれて、気軽に、対話を応じて頂いた思い出と共に、私の社会や人生に対する見方を育んでくれた人達であった。


【追記1】

40数年前に、私たちに、アフリカの大切さを教え示して、後世をアフリカのケニヤ、ナイロビにて、日本の若者達に、スワヒリ語をまなばせる学校を設立して、励まれたその人生のなかにおいて、同時期に、米国大統領オバマ氏の父親が住んで暮らしていたことを知ったのもつい最近のことである。

ケニヤのナイロビで、星野芳樹氏とオバマ氏の父親と、交友がなされたことがあったのではなかろうかと思うのである。感慨深いものがある。

【追記2】

米国大統領として、大活躍をなされているオバマ氏の人生の逆境を乗り越える信念・闘争力と星野芳樹氏の不条理への闘争・反骨精神を重ねて、思い描くときに、現代の日本の社会・政治指導者達の人生と比べて、眺めれば、雲泥の人生の質の落差があることが、理解できるのである。

そこに、日本の社会の政治的構造における危機が潜んでいる様に強く、思いを致し、未来の社会を担うべきリーダーたるべき人生経験の重さ、社会経験の真なる厳しさのある政治家が活躍されていないことに対して、憂慮を覚える
のである。

人生の真なる目的を持たずに、人生に真の闘争を経験していない人たちが名誉と権力だけを求めて、社会や政治の指導者として、おられることが、この現代
日本の社会の混迷を深めさせている様なのである。

逆境を乗り越える経験したことがないと思われる自民党の小泉氏、阿部氏、福田氏、麻生氏や公明党の太田氏や経済界の権威者等である御手洗氏、トヨタ奥田氏等に、共通的に、そのエリート的な人生を歩んで来た人やこれから歩もうとしている人達に、人生上の真の逆境における経験がない人達の共通する危うさが、かいま見えてくるのである。


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2.【星野芳樹氏の活動に係わる人達の紹介】

【google検索を利用しました。】

【出展引用】

ダニエルサラーム便り 根本 利通(ねもととしみち)
http://jatatours.intafrica.com/habari66.html

【出展引用】

ケニア旅行記3
http://www.geocities.jp/walkabout_ted/kenya_travel3.htm

【出展引用】 星野芳樹氏の政治活動記録

第001回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会引揚促進並びに感謝決議に関する小委員会 第1号

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1536/00108071536001a.html


【出展引用】:

日本―アフリカ交流史の展開 
日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望ー

大谷大学文学部  古 川 哲 史
2008 年1月15 日受付,2008 年1月31 日受理
連絡先: 〒603-8143 京都市北区小山上総町
大谷大学文学部
e-mail:

http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf


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【星野芳樹氏の生涯】;出展引用:

http://www.jacii.net/page004.html 

http://74.125.153.132/search?q=cache:1162EFvEHswJ:www.jacii.net/page004.html+%E6%98%9F%E9%87%8E%E8%8A%B3%E6%A8%B9&hl=ja&strip=1

これは Google に保存されている http://www.jacii.net/page004.html のキャッシュです。 このページは 2009年5月27日 13:53:45 GMT に取得されたものです。

そのため、このページの最新版でない場合があります。 詳細

フルバージョンハイライトされているキーワード: 星野 芳樹
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創立者・星野芳樹の一生

1909(明治42) 3/30 東京下谷区にて出生、本籍は父 光多の出身地群馬県利根郡利南村大字戸鹿野(現沼田市戸鹿野町)697-1で、光多は当時両国教会の牧師で日本 キリスト教界の指導者の一人として活動していた。

母みねは光多が横浜フェ リス女学校の教頭時代に同僚であった。

1891(明治24)年7月15日に結 婚、芳樹が生まれた時父50才、母41才であった。

家族は兄二人姉一人と アメリカ留学中の父の妹あいがいて、芳樹が3才の時帰国、母校の津田英 学塾の教師になった。

長兄直樹は、後に東大を出て大蔵省に入り満州国総 務長官時代、時の首相東条英機に請われて帰国、国務大臣を勤めた。

戦 後A級戦犯として獄につながれた。釈放後はダイヤモンド社会長、東急ホテ ル社長となった。

次兄茂樹は東大で土木工学を学び鉄道省に入りトンネル 建設の第一人者として清水、丹那、関門各トンネルを手懸けた。

すぐ上の七 歳違いの姉花子は津田卒業後アメリカ留学、ミシガン大学教授の日系二世 山極越海と結婚、そのままアメリカに永住した。

1915(大正 4) 4  東京市立小日向台小学校入学。

1921(大正10) 4  私立早稲田中学校入学。

1926(大正15) 3  同校卒業。

1928(昭和 3) 4  旧制静岡高等学校文科甲類入学野球部入部、選手制度に疑問を持ちストライキを起こす。

1929(昭和 4) 共産党系の社会科学研究会の友人と交友が始まる。 同校3年在学中、思想運動に関係して逮捕され、放校処分を受ける。

1930(昭和 5) 7  同校退校。

1932(昭和 7) 7/7  父光多、永眠。

長兄直樹、満州へ赴任。

1933(昭和 8) 6
大阪で非合法活動中逮捕される。実刑5年未決通算7百日の判決を大阪北刑務所に下獄する。

獄中母方の従妹羽太巴の面会を受ける。その後図書の差し入れ、激励の手紙を貰う。

豊多摩刑務所に移される。

7年間の獄中生活に、語学特にエスペラント語や科学関係の本が読めた。初歩微分積分から理論物理学の書物、アインシュタインの一般相対性理論、プランクの量子力学まで原書で読み学の何たるかを知り得たと思い、社会思想をこの科学知識で見直した。

マルクス主義は資本主義の病理現象を鋭く分析した結果、マルクス主義は歴史的には認められるが、それ自身も病理現象を伴っており、これらの分析排除が必要でその限界を知ることが肝要であると悟る。

またこの期間、多くの共産主義者といわれる人々が転向していった。

芳樹はこれらの転向者とは根本的に違い、当時の日本政府が中国への武力侵入していることを批判、反対していた自分が、ここで転向という政府に謝罪を乞うのは筋が通らないと非転向を貫いて満期まで獄にいた。

この獄中で養った精神的エネルギーがその後の活動の基になったと後年語った。

さらに海外での多くの知友を得られたのも獄中の思考が役立った。

1934(昭和 9) 1 羽太巴、奈良女高師(現奈良女子大学)附属実科高等女学校英語教師に採用される。

1939(昭和14) 3 羽太巴、芳樹と結婚のため退職して上京、落合に一人でいた芳樹の母と一緒に住む。

1940(昭和15) 2/24
                        3/30
                       4

紀元二千六百年祭の恩赦で、満期より一ヶ月位早く出獄する。

巴と結婚、時に芳樹31才、巴29才。

国外へ行こうと計画をたて満州国経由で上海に向かう。途中ソウルで後に南北統一の星と呼ばれた呂運亨と語り合った。

1941(昭和16) 7
                        9
                        11

上海で華興銀行の鷲尾氏の紹介で上海自然科学研究所の助手となる。その間中国語を学ぶ。

夜間日本語講習会を開き、ここで多くの中国の友人が出来た。

上海市公平路に中国人児童のための容海中学校を創設、1945年8月15日敗戦の日まで同校を経営する。

自然科学研究所を退職。

この容海中学校の設立と経営は精魂傾けた最初の事業であった。当事の中国人は上下共日本を憎悪していたので、将来日中両国民族友好のためには憎んでいるが日本の科学技術に一目置いていることが解った。

そこで容海中学校で自分でも教壇に立って数学と物理を教えた。

1945年には小中併せて370名の生徒が在籍していた。後事を託して引き揚げる時、盛大な送別会を開いてくれた。

1981(昭和56年)3月、35年ぶりに上海を訪れた時、迎えてくれた7人の内4人が高校の理科と数学の教師になっていた。

1944(昭和19) 1/28
                         3  一子「楊」、生まれる。

日華親善の功により大東亜省より内山完造、頓宮博士と共に表彰される。日本政府が中国に対しそれまでの強圧政策を「日華共甘同苦」の政策に改めたためである。

1945(昭和20)12 日本敗戦後本国に先立って、在上海日本人居留民の間で総選挙を行い、代表委員30名を選出し日本人自治会を作る。帝国政府領事館が解散したため、その業務を自治会が引き継ぐ。

その代表委員の一人として、宣導部の教育班を担当帰国まで勤務する。

1946(昭和21) 5 日本に帰国。津田塾塾長の叔母星野あいの家に一時身を寄せる。

1947(昭和22) 2 未帰還同胞帰還促進連盟を組織、東京支部長として全国運動の中心となって活動する。当時革新政党も熱心でなかったソ連に抑留されている同胞の帰還促進を要求する市民運動であった。数寄屋橋で21日間の断食をしたのもこの時であった。

第一回参議院議員の選挙に全国区より立候補し、3年議員に当選。労働者農民党に属す。

1948(昭和23) 3
                         6
                         9/25
                         11/ 5 家族と共に沼田に引揚げ、以後住居を沼田に構える。 

                             巴、群馬県立沼田女子高校教諭の職を得る。              
                             「共産主義卒業の記」土佐書房より刊行。                 
                             「上海路地裏の人々」世界社より刊行。  著者 星野芳樹       

1949(昭和24) 巴の母れん、同居する。

1950(昭和25) 4 参議院議員任期終了。

1952(昭和27)11/15
                       12 母みね、永眠。

仏教、キリスト教の有識者を集め、宗教者平和連盟を組織、これと労働組合幹部との話し合いを設営して平和促進国民会議を作る。しかし、容共派の人たちと意見が合わず離れる。

1953(昭和28) 2 仏教団体のインドへ農業技術者を送り届ける通訳兼付き添いとして僧衣で渡航。30万円の貧乏旅行であった。

節約した旅費でビルマのラングーンで開催されたアジア社会党大会にオブザーバーとして参加、アジア・アフリカ諸国に多くの知友を得る。

この間、インド、パキスタン、アフガニスタン、ネパール、スリランカ、ビルマ、マレーシアを広く周遊し、ラングーンの会議で知り合った人々を起点に多くの人々と知り合い、深い議論を交わした。

1954(昭和29)11 兄直樹が静岡新聞社の大石光之助社長を紹介してくれ、同紙に一週間に一度かこみ記事を書き同社の論説委員になる。

1955(昭和30) 1 姪百合子(直美長女)同居する。

1957(昭和32) 5/27 義母れん、永眠

同社海外特派員として取材活動を委託され、費用2000ドルで半年間アジア、アフリカ諸国をめぐる。この時初めてアフリカを訪れる。以後静岡新聞社時代のアフリカ取材は19回に及ぶ。

1958(昭和33) 4 利根沼田水泳協会設立する。
この地方にまだプールがなく利根川で泳いでいたころから多数の少年少女を水泳を通して訓育した。沼田中学水泳部が県内優勝10回、その後もしばらく利根沼田の中学が他都市に優勝旗を渡さなかった歴史を作った。

訓育の方針はあくまで個人の選手を育てる事でなく、団体の中で助け合ってみんなが伸びるという原則をとおした。「小父さん」の名前で慕われ、1979年70才で一時帰国の際、誕生会を沼田で開いた所、水泳協会の関係者を中心に96名もの人が集まり歓迎してくれた。

1959(昭和34) 1 「アジア・アフリカ紀行」講談社から出版する。

1961(昭和36) 4 巴妹直美、沼田へ転居。

1967(昭和42) 4 楊、群馬県公立学校教諭に採用沼田西中学に奉職。

1969(昭和44) 3 楊結婚。

1970(昭和45) 3/31
                         4
                         4 巴、沼田女子高校を退職。

静岡新聞主幹に任ぜられ、静岡新聞社に常勤する。

静岡に家を建て妻と転居する。

静岡大、静岡薬科大、東海大海洋学部の学生有志を集め、静岡青年海外事情研究会を作り、毎年冬と春の休暇を利用して4名ずつ東南アジアと韓国の安値旅行の手ほどきをした45)ばして帰って来た。しかも120ドルを余して。この経験から若者を海外に出すことの意義を知った。

1971(昭和46) 「バングラデッシュ独立の経過を通して世界政治の裏をのぞく」を静岡新聞社より刊行。

1972(昭和47) 12/ 5 幼児のころから家族同様だった叔母星野あい永眠。
                         兄茂樹永眠。

1974(昭和49) 1/10
                          3/ 2
                         11/16 静岡新聞社定年退職、住居をケニア、ナイロビに移す。

過去20回近くの海外取材で一番気に入った土地であった。娘も独立、安心して妻と此処を永住の地と定めた。静岡の家を処分し、その他自己資本を投じて土地、家屋を購入した。此処から静岡新聞に論説を送ると掲載してくれた。

ケニア国ナイロビ市に「日本アフリカ文化交流協会」設立の準備を始める。

上記の協会がケニア政府から認可される。

1975(昭和50) 1/ 1
                         4

「ナイロビだより」第1号発刊、各地に送る(二百部余りから段々増え後に七百部ぐらいを自分で表書きし送った)。

日本アフリカ文化交流協会(ケニア・スワヒリ語学院、星野スクール)は第1回留学生として6名を受け入れる。

この学院はナイロビの中心より僅か2キロ、キリマニ(丘)の樹木の緑と静かな環境の一画にある。日本人にスワヒリ語、英会話、アフリカの政治、経済事情、文学、歴史、芸術等を取得する機会を与えるために、又ケニア人とケニア居住の外国人に、日本語の教育をするために開校されたアフリカ唯一の教育施設である。開校当初より門扉を持たず、人種の間に壁を作らぬ交流を奨励するため、通称「星野スクール」と呼ばれ多くの人たちに親しまれている。

当初NHK放送文化基金及び財界からの補助もあり、1975年の第1期生より1979年の第8期生までは(社)アフリカ協会による運営。第9期生以降の留学生の募集・選考・派遣は、この協会の日本事務局で行なわれている。

第1期生授業開始。

1988年3月ナイロビを引揚げる時には、日本よりの留学生は第24期生に達した。第1期と第2期は学習過程を1年としたが、第3期からは半年としたため、1年に2回学生を受け入れ、1期の定員を12名としたので、総数で270余名が学んだことになる。

このほかに、ケニアの人々に対する日本語学習講座を設けたが、これは延べ211名、またケニア在住一般外国人のためのスワヒリ語講座は延べ320名の学習者があった。

1976(昭和51) 4 第2期生受入れ。
第2期以来日本人留学生は毎期卒業式の際、スワヒリ語を用いて何か劇を演じる伝統が生まれ、必ず実施している。半年前までスワヒリ語を全く知らなかった青年が自分たちで劇の台本をつくり、スワヒリ語に直し、舞台装置、衣装も作って演じることは、ケニアの官民にひとつのミラクルとして評価されたいる。

1977(昭和52) 3 「アフリカ古人今人」第1号発刊。

1978(昭和53) 5/29 兄直樹、永眠。

ブロンズ社より「アフリカの指導者」刊行。

1982(昭和57) 1 1982年までに160名の留学生を迎える。ケニア在住外国人のスワヒリ語講座は320名、ケニアの人々への日本語講座は211名の学習者があった。
読売新聞夕刊の「人」欄で4回にわたって紹介される。

1984(昭和59) 7
                         8 「アフリカ古人今人」第87号で終刊する。

このころは留学生引率のため、妻巴と交互に帰国する以外他国に行っていなかったが、従妹(窪田てい)の娘婿浅羽満夫が隣のタンザニア大使として赴任して来たので、久しぶりに近くに来た親戚に会うためにオンボロの愛車でダルエスサラームへ出かけた。ナイロビ、ダルエスサラーム間の標高差1800メートル、距離1000キロの完全舗装とはいえない悪路もある長距離運転。
帰途車がえんこしたり、悪路にはまったりで散々な目に遭ってやっとのおもいでナイロビに帰って来た。このため体調を崩し静養を余儀なくされた。

1985(昭和60) 2
                         9
                         11 学生引率のため帰国中に入院す。

「ナイロビだより」第119号で終刊となる。

日本とアフリカの文化交流の功により叙勲、勲三等旭日中綬章を、妻巴は勲五等宝冠章を授与される。

日本アフリカ文化交流協会の事業としてスワヒリ語学院を始めて10年間、卒業生も20期230名を超えた。

1986(昭和61) 6 リブロポート社より「星野芳樹自伝」刊行。

この書物でも一貫して真の革新とは何か?と問いかけている。スターリンのソ連帝国主義の破綻を予見していた。さらに北朝鮮については、民主主義の萌芽さえ見られず、独裁者金日成が偽者であると言及している。

彼によれば、彼が7才の時に朝鮮に金日成という指導者がいて日本帝国主義に反抗して白頭山で日本軍と戦った英雄として朝鮮民族に仰がれていた人物がいた。

戦争が終わりソ連軍が平壌に入った時、これが金日成だと連れて来た男は彼より年が3つ若いことがわかり偽者だと直感した。

この男の政権下で優秀な人物がずいぶん粛清されている。

朝鮮が日本に支配されていた時、頑強に抵抗し独立運動をした人たちが北朝鮮に帰ったけれど反乱罪で処刑されている。

現に従妹と結婚した東大出の金斗鎔も帰国後消息がつかめないでいる。

1987(昭和62) 1/7 姉花子、永眠。

アジア・アフリカ文化財団主催、第5回「アジア・アフリカ賞」を受ける。

1988(昭和63) 3/5 故郷沼田に引揚げ、療養生活に入り再起をはかる。

この時スワヒリ語学院は第24期生が修了、卒業生数は270名に達していた。後任を第6期卒業の上田栄一氏に託す。

1990(平成 2) 1/23 義妹羽太直美、永眠。

1992 (平成 4)  5/31
                         6/6 心筋梗塞のため沼田脳神経外科病院で永眠。

日本基督教団沼田教会で葬儀・告別式挙行、同教会メモリアルパーク内の墓地に納骨。


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【引用終わり】:以上の通り

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